∽∽∽戦争を想う、平和を想う(新版)∽∽∽

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暑い夏に思い出すこと

                 田口 孝さん(高野台在住)

 今年も夏がくると思い出す。あの敗戦の日のことを。暑い日ざしの昼、玉音放送が今までの騒乱が嘘のような静けさの内に始まり、敗戦を知った。怒り、泣き、悲しむ半面、ほっとした思いが実感であった。敗戦から半世紀を悠に越え67年目の記念日を迎え、戦争体験をもつ人、その体験談を語れる人も少なくなってきた。戦争に対する考え方が希薄に成りつつある社会を観るにつけ、孫子の時代は平和な国で在り続けられるのか危惧の念を抱いている。

≪戦争体験を子ども達に伝えておきたい≫

 シルバークラブで戦争体験談(従軍体験、銃撃戦体験、人の生死を分ける話)を語れる人は、枚挙にいとまが無いほどだったが、時と共に戦争の苦い話、悲しい話、そして恐怖について話す人が少なくなって久しい。私も古希を数年も過ぎ、先輩の経験に比べれば些細な体験だが、子供たちには戦争が不安と恐怖、そして残酷で悲惨なことを伝えておきたいと思う。

 私は昭和17年国民学校入学の軍国少年だった。食料、衣料品の配給が始まった年、それまで優勢であった戦局も敗色が濃くなり、昭和19年後半には本土空襲がはじまり不安の日々を過ごした。

 昭和20年正月、雪模様の日、警戒警報、灯火管制で薄暗い食卓に、お汁粉に餅の入った椀(その頃には食べられなかった)が出ていた。食べながら母が「みんなが無事でいてほしい」と一言呟いた。最後の晩餐のような気持ちがした事が妙にこの歳になって脳裏から消えない。

≪家族で大八車を押して強制疎開≫

 その後は品川下大崎の家が強制疎開にかかり、家が戦車で破壊される所を見ながら、大八車に荷物を積み、家族みんなで車を押し世田谷の三軒茶屋の伯母の家へ疎開した。庶民が権力者により、いとも簡単に、私達家族も含め、人生を変えられた大事であったと今思う。

 学校へ行くが警戒警報とともに下校となる、そんな或る日、下校途中、空襲警報になり家の近くの公園まで来たとき艦載機(戦闘機)の機銃掃射を受けた。キーンという金属轟音とともに,ダダダダダー、バリ バリ バリ バリ、私は咄嗟に傍のコンクリ製の滑り台の下に逃げ込み、九死に一生をえて、今を生きている。

≪東京大空襲の恐怖と敗戦≫

 その後、昭和20年3月10日、未明に東京大空襲で数万人が死に、下町が焼け野原となった。毎日寝る時も防空頭巾を枕元に、足にはゲートルを巻いて寝る有様でした。そんな或る日の夜警戒警報のサイレンに起こされ、身支度と共に空襲警報に変わり防空壕に逃げ込む瞬間、照明弾により一瞬昼間の様に明るくなりB29の爆音と共にザーザーザー焼夷弾が落ち始め、その1発が我が家の軒先を掠め落ちた。瞬間、油状の液体が飛び散り瞬く間に燃え上がった。母と共に不安と恐怖で駒沢方面の山へ逃げた。その夜目黒の伯母が焼夷弾を頭に直撃され即死されたと聞いた。翌朝、屍が横たわる焼け野原に家族の消息を求める人、食料を探す人、呆然と佇む人、地獄絵そのものの様であった。そして広島原爆投下、長崎でも…そして敗戦。

 その後の食料難には、空腹の連続、子供の成長期、親も子育てに苦労していた。

 人の運命を人がねじ曲げる、戦争は大儀がどうであれ、避けなければならない。