∽∽∽戦争を想う、平和を想う∽∽∽

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平和への思い

                     N・Tさん(つくば市谷田部在)

<勤労動員と東京で2回の大空襲>

 私達は、学校勤労動員ということで、女学校2年生の10月に学業が打ち切られて、東京中央気象台に配属され、モールス信号の速成訓練を受けました。それからは気象通報を聞き取る仕事だけの毎日になり、教科書を開いて勉強するということは全くありませんでした。

 3月10日に東京大空襲があり、焼夷弾の直撃を受けて友人が即死しました。昨日まで語り合い、笑い合っていた友の死の悲しさに言葉もなく、信じられないことでした。5月25日、第二の東京大空襲があり、私の家の前は見渡す限り焼失しました。続々と来襲する米軍のB29爆撃機が落とす焼夷弾から更に線香花火のようにパラパラと広がり落ちる火の玉を夜空にはっきりと私は見ました。あの火の玉が当たれば私は死ぬのだと思い、胸が苦しくなったことを忘れません。風の向きによって私の家は焼失をまぬかれました。途中ではぐれた父母と再会できましたが、この夜の大空襲で沢山の方がなくなりました。

<学童疎開、終戦>

 仕事のため父母は東京に残り、姉と私は長野県軽井沢に疎開する事になりました。行きたくないと何度言っても、とにかく生きるのですよと言われ覚悟を決めて東京を離れました。軽井沢はのんびりとしていましたが、食べることは辛い思い出ばかりです。配給された大豆混じりの米をより分けて米はお粥にし、豆は炒ってポリポリ食べるのですが、すぐなくなるので野草のアカザやシロザ等いろいろ食べました。農家から分けてもらう少しの南瓜で空腹を何とか満たしていた頃を思うと、今の飽食や捨てられる食品の多さに涙が出ます。

 軽井沢では日本降伏の噂が広まり、外交官の子ども達が日本は負けたのだよと言うので、半信半疑でした。8月15日に日本は無条件降伏し、ドイツ人の子ども達の言った通りで、彼らが既に知っていたことが不思議でした。東京に帰れたのは11月で、親子ともげっそりとやせてはいましたが、生存していることの喜びの再会でした。

<新しい憲法>

 日本国憲法が公布されて、喜びました。戦争はもう絶対に繰り返してほしくないと心の底から思いました。今何故9条を変えようとする人がいるのでしょうか。人間同士殺しあってよい事など一つもありません。若い方々にはこのことをしっかりと知って頂きたいです。主権者として意見をはっきりと言いましょう。日本国憲法9条の意味をよく理解し、みんなでそれをしっかりと守ろうではありませんか。