∽∽∽戦争を想う、平和を想う∽∽∽

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戦時下の思い出

                    野口 いつ子(つくば市上岩崎)

<父の出征>

 終戦の時7歳だった私の、その頃の記憶は定かではありませんが、何故か一つだけはっきりと覚えていることがあります。ある日、父と2人で遊んでいたところ、父が突然見知らぬ人に呼び出されました。私も父について外まで行くと、門の外で待っていた男の人が父に何か手渡します。それが赤紙(召集令状)だとその時は分かりませんでしたが、この情景だけは何故か鮮明に焼き付いているのです。その後、何時どのように父が出征していったかは記憶にないのですが、病弱な母と4人の子ども達を残しての出征です。温厚だった父の性格から考えれば、さぞや後ろ髪引かれる思いだったろうと思わずにはいられません。

<農業に取り組む兄>

 農家だった我が家を支えたのは8歳年上の長兄でした。父親代わりで良くリヤカーを引いて畑に行く後ろ姿を思い出します。最近、「満蒙開拓団青少年義勇軍」の映像を見ましたが、この人たちも兄と同じ年頃、さぞ大変だったろうと涙がでました。

 私には今14歳の孫がいますが、あの頃と比べようもない幸せな生活を送っています。平和が一番と思わずにはいられません。

<合歓(ねむ)の花を送る母>

 家の庭に大きな合歓の木がありました。父が大好きだった花だったそうです。この花が咲くと、母は父への便りに、薄紅色の美しい花を幾つか大事そうに同封し送っていました。今はこの木もなくなってしまいましたが、その時の母の切ない気持が、今の私にはよく分かります。

<空襲警報と防空壕>

 島名国民学校に入学しました。校庭での朝礼が始まると「空襲警報だ、伏せろ」、教室では「机の下に隠れろ」と先生から指示されたり、校庭の隅には各地区毎の防空壕もあり避難したこともあります。警報発令で帰宅することもありましたが、この時には6年生が背負って走ってくれました。怖かったです。

<父の復員>

 幸い父は無事復員することができましたが、戦地でのことを余り話しませんでした。復員後のにわか百姓で苦労が絶えず、それどころではなかったのかも知れませんが、今は、もう少し父のことを知っておけば良かったなと反省しています。

 無事に父を迎えられたことは本当に良かったと思います。もし父が戦死していたら私たち家族はどうなっただろうと考えると、本当に暗い気持ちになります。子どもや孫たちにあんな思いはさせたくない。世界中が平和になって欲しい。心から願っています。