∽∽∽戦争を想う、平和を想う∽∽∽

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戦争と難民−あなたも私も、安倍さんだって、戦場に放りこまれたら野犬になる

                  渡辺 正幸 (つくば市市ノ台)

 黒沢明の名画“用心棒”は空っ風が吹きすさぶ宿場町を野犬がヒョコヒョコと歩くシ−ンで始まる。私はその身に覚えのあるシ−ンに激しい悪寒を覚えた。犬は切り落とされた人間の腕を咥えていた。あわれな腕の持ち主が生命を取り留めたかどうかは定かでないが、確かなことは、持ち主を離れた腕が野犬の食糧になったということだ。

 私が国民学校1年生だった1945年6才の夏、中国の瀋陽(旧奉天)付近で見た野犬の群れが咥えていたのは人間の嬰児だった。60年前に私の眼の前を嬰児を咥えて通る野犬を見て私はなんの感情も抱かなかった。暑熱と酷寒の中、ボロを着て顔に墨を塗って丸坊主にした女を混じえた日本人の群。ときに無蓋貨車に詰められて仲間をこぼしながら移動する。体力のない者から順に脱落する日々だった。子供の泣き声が漏れると襲われるリスクが大きいので、「殺せ」と云われる漆黒の闇。飢餓状態の難民には母乳がでない。殺すよりはと路傍に置いた乳児が野犬の餌食になった。散乱する夥しい人馬の遺体。寒風の中を裸同然で動く難民の群。身の安全は、彼ら自身も極貧の中国の人々の自制心が頼りという極限の日々。死者がでなかった日はなかったと思うが弔いの記憶は、引揚船が遺体を海に流したあと周回したことを除いて、全くない。6歳だった私は1歳の弟を背に、左右に水筒と小物袋、胸に着替えの袋という出で立ちで歩いた。

 1年後の8月に広島に着いた。写真は日本の土を踏んだ日の夜の私そのものである。全身に浴びたDDTを払い落し、「もう殺される心配はない」と安堵したときに、弟の命が尽きた。たくさんの死が目の前にあっても出なかった涙がみんなの目から初めて流れた。写真の少年は弟の亡骸を背に焼場の火を浴びて立っている。彼が経験した苦痛と悲しみに1945年以降今もなお耐えている人が、アジアに、アフリカに、アラブに居る。

 戦場で、難民キャンプで、人は必ず、われ先に逃亡した高官も含めて例外なしに、他人の不幸と死に無感覚になる。最後には「人に会うのが最も恐ろしい」境地に人を陥れる。戦争は、その動機が「共通の価値観」であれ「xx主義」であれ何であれ、人を野犬にする。野犬になりきれない人は狂う。表に出た大日本帝国の指導者は美談に彩られたが、勇ましい言辞を弄した人ほど死に際が悪い。現場の兵士には、アメリカの事例にも見るように、秘匿されてはいるが精神を病んで暴発した人が多くいたはずだ。過去に歴史を前進させた戦争は確かにあったが、われわれは「戦争はコリゴリだ」と思ったし、決して戦争を手段にしてはいけないと誓った。 ...「結」No.32より

[写真はジョ−・オダネル著「トランクの中の日本」(小学館)より]