∽∽∽戦争を想う、平和を想う∽∽∽

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私の経験から想うこと     ・・・・・梅田一徳(つくば市小野川)

 第二次世界大戦時、父は私をお腹に抱えた身重の母を残して、南方の戦場へ出兵しました。幸い終戦前に帰国を命ぜられ、86歳まで生きました。母の話では、父の出兵中、現在の東京都昭島市に住んでいて、空爆のたびに、乳飲み子の私(1944年4月生まれ)をおんぶして防空壕に逃げ込んだそうです。当時の母の気持ちはどれほどのものであったか、知る由もありません。

 東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けています。特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けています。

 私の記憶に残っていることといえば、朝鮮戦争の頃(6歳)のことです。住まいが米軍横田基地に直線で1kmもないほど近かったこともあり、夜間何度か空襲警報(訓練だったような気もする)がなって、灯りが漏れないよう電灯を風呂敷などで覆い暗い状態でじっと我慢することがありました。その時は子供心に怖い思いをしたのを思い出します。さらに、小学生になってからは横田基地から飛び立つジェット戦闘機の騒音に悩まされました。教室は防音のため2重窓になっていましたが、それでも授業に支障がありました。あまりにもジェット戦闘機の騒音が激しいので、校庭で遊んでいる時などジェット戦闘機に向かって遊び半分で石を投げつけたりしました。その小学校で、夜、映画会が催された時のことです。横田基地の中で誤って爆発がありました。その爆発音と振動は恐怖そのものでした。爆発現場からは何度も爆発音とともに真赤な火柱と黒煙が上がり、体を震わせながら自宅へ逃げ帰った記憶があります。戦争では目の前でこのようなことが起こり、人命が失われるのです。未来を担う子供たちに、このような経験はさせたくありません。

 日本には、世界に誇れる平和憲法があります。未来永劫これを守り発展させなければなりません。そのためにも、九条の会の活動は重要です。

 人それぞれ得意なやり方スタイルで活動することが、息永く多くの人に理解されていくことに繋がると考えています。紛争があった場合、暴力ではなく話し合いで解決できる能力を備えているのが人間です。核兵器や武器が不必要となる世の中に一日でも早く到達できる日を夢見ているのは、私だけではないと思います。その理想に向かって共に頑張ってゆきましょう。

・・・・・「結」No.27掲載