∞∞∞戦争を想う、平和を想う∞∞∞

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ぼくは14歳の少年であった   ・・・・・梅谷献二(つくば市観音台)

 数年前、所用で韓国のソウルを訪れ、日本人専用の民宿に滞在し、そこでたまたま韓国の人と組んで服飾関係の仕事をしているという30代の日本の女性と知り合った。そして、ある朝食時の雑談で、ぼくが「韓国に来ると、かつてこの国を植民地としていた側の人間として忸怩たる思いがある」というと、彼女は「韓国が日本の植民地だったなんて、まったく知らなかった」という。ぼくはあきれて、何度も聞き直したほどである。戦後60年を超え、戦争当時の出来事は風化が進み、自らはその時代を経験していないのに、戦争の正当化を公言する高級官僚が現れたりしている。

 日中戦争に引き続き第二次大戦が始まったとき、ぼくは小学校5年生であった。それから中学(旧制)3年で終戦を迎えるまで“非常時の銃後”にあっての忘れられない思い出がたくさんある。

 中学に配属された軍事教練の教官に将来の希望を聞かれ、「昆虫学者になる」と答えたら、「非国民!」とののしられさんざん殴られた。腹から声が出ていないという理由で口に泥を入れられ、半日立たされた級友もいた。そして2年生になると全員軍需工場に動員されて航空計器の測定で明け暮れ、やがて疎開した松本では貨車から石炭を降ろす重労働が待っていた。松本では法律の教師をしていた叔父の家に寄宿していた。ある日、赴任先の九州から帰宅した叔父の話は恐ろしかった。広島で全員汽車を下ろされ、戦災の片付けをやらされたという。人も馬も片側だけが焼け爛れ、あれは殺人光線だ、と。出征する兵士も、帰ってきた英霊も見慣れたぼくにとっても、叔父の話は異様だった。戦後、叔父は地方判事を勤め、昭和35年(1960)に亡くなったが、二度とぼくに「ヒロシマ」を語ることはなかった。

 工場で全員が集まって聞いた「玉音放送」はだれも意味がわからず、商店から動員されたおじさんが、「敵が残虐な兵器を使ったから日本も使うと天皇陛下が言われた」と解説した。敗戦は午後の作業中に知った。数日前に父親の戦死の公報のあった級友が貨車を押しながら大声で泣き、続いてみんなの涙が鉄路に落ちた。ぼくは14歳の少年であった。

 憲法9条は日本が内外の犠牲と反省の上に立って生まれた世界に冠たる条項である。永久の戦争放棄をうたったその高い精神が、なぜか損なわれようとしている。ぼくにも人並みに小学生の二人の孫がいる。この子達が絶対に戦争に行かない保障を確立するのは、われわれの義務だと思っている。

・・・・・「結」No.26掲載