筑波気象三官署平和宣言

気象研究所 中澤哲夫

 1987年8月3日、つくばにある三つの気象官署、気象研究所、高層気象台、気象測器工場(現在の気象測器検定試験センター)で、三官署の全職員数の94%にあたる224名の賛同で、「筑波気象三官署平和宣言」が採択された。まず、できるだけ多くの人に呼びかけ人になってもらい、呼びかけ人を中心に運動を進め、一人一枚の署名用紙に記入してもらった。名古屋大学に続いて、その年の4月に、当時の電子総合研究所で平和研究所宣言が出されて以来、つくばにあった国立試験研究機関では14番目の平和宣言だった。

 この筑波気象三官署平和宣言を出すことができたのは、それまで気象研究所を含めた気象界が日本での原水爆禁止運動で果たしてきた運動の歴史と伝統があった点が大きい。その出発点となったのは、1954年3月1日にアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験である。杉並は、日本の原水爆禁止運動の発祥の地と呼ばれているが、当時杉並区高円寺にあった気象研究所や蚕糸試験場などの労働組合がその運動を支え、自民党の区議や町会長、PTA等が参加して5月9日に原水爆禁止運動杉並協議会が発足している。5月20日には、日本気象学会総会で、「水爆実験禁止に関する声明書」が決議されている。1955年8月に広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会にも気象研究所から代表が派遣されている。この伝統は、その後つくばに移転してからも引き継がれてきた。1982年の第2回国連軍縮特別総会への代表派遣の取組みや、「広島・長崎に代表を送り続ける会」の活動などもその一つである。

 しかし、最近の職場における原水爆禁止運動の取組みは活発とは言えない状況にある。今年は職場から原水爆禁止世界大会に代表を送ることができなかったが、ここのところ、毎年代表を送ることはできなくなってきている。職場9条の会についてもまだ結成されていない。運動の継承が必ずしも若い人たちにうまく行われていないことが大きいのかもしれない。今後の大きな課題である。